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激情の秩序



 魔が差すということはよくあると思います。しかし、それを行動に移す割合ってそんなに高くありませんよね。
 私は本屋に出かけたとき、よく魔と遭遇します。「魔と遭遇」って「美少女と遭遇」と似てますよね。
 まあ、それはさておき。たとえば雑誌のコーナーで、一冊しかない雑誌をべつの雑誌の裏に隠してしまおうかと思ったり(確保しておこうという意図ではない)、漫画やラノベの巻数を入れ替えたりしようと思ったりするわけですよ。しかし、とくに行動に移すということはありません。やはり、そういうことはやってはいけないと思うところもありますからね。業務妨害にあたるでしょうし。
 ただ、それを実行しないのは私の理性が極端に強いからというわけではありません。それをやったところで私に満足感が訪れないのがわかっていることも歯止めになっています。つまり、衝動はあっても、それによって起こる結果は望んだものではないという、なんとも矛盾した魔なわけです。
 他には、そうですね、センサーバーがどうこうコントローラがどうこうのあまりの認識の悪さに棒コントローラ……じゃなかった、某コントローラーを叩きつけて踏みつぶしたい衝動に駆られたりしますが、実際にはやらない。そんなことしたらリモコンコントローラが壊れるからです。物は大事にするもの、という前提があるわけですね。物が無意味に壊れるような結果を望んだりしません。

 考えてみると不思議なもので、衝動というものの大抵は利益に結びつかない。衝動買いしたものがすごく良いものだった、なんてことはありますが、衝動買いそのものはある程度の需要、もしくは必要性があるので例外といえるでしょう。
 しかし、衝動には欲求が働いているのも事実。私の本屋の例では、私自身よくわかりませんが、おそらくは人を驚かせたいという、単純でひねくれたところから来ているのだろうと思います。

 必ずしも欲求と利益が結びつくことにならないというのはどうしてなのか。まあ、欲求は自分の中だけのものであっても、利益は自分と周囲の影響が関わってくるからですね。社会性としての利益と言い換えても良いでしょうか。
 自分にとって不利益が極端に大きいもの。犯罪や、周囲の人間関係に重大な損害をもたらすものなどは、「たとえ魔が差してもやってはいけないこと」という部類に入りますね。社会が個人に促している自制です。わかりやすいのは刑法・民法ですが、まあ、法律は善悪を語るほど雄弁ではありませんから、また別のところにある善悪、いわゆる道徳によるものです。
 衝動は生まれたときこそ自分の手の中だけに収まっていますが、それを実行しようと思うと個々の道徳を通してまったく別の物に変化します。衝動の代替えとして道徳に則った行動となって出てくるわけです。行動を抑制することだったり、無関心を装うことだったりしてね。当然、衝動の発端となった欲求は宙ぶらりん。秩序を持ってして欲求をありのままに満たす術はありません。

 じゃあ、衝動を伴う欲求は絶対に満たされないか、というとそうでもない。そもそも欲求は単純なものであることがほとんどで、複雑な工程を必要としてないからです。問題は、私が、ひいては多くの人が欲求の根本を見据えることができないことですね。
 人間は単純なものを複雑にするために秩序を受け入れたのではないかと思うわけです。まあ、「複雑っぽいことを考えてたらなんだか合ってるような気がしてきたよ!」という調子ではないかと思いますが。
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