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選択の狭間

 二日前に放映されたビートたけしと橋本知事、東知事、石原知事が出演していた生放送の討論番組でトロッコ問題というものが取り扱われていたんですよ。いや、私は番組をまともに見たわけではないんですが、そんな設問があったことだけ覚えてまして。

 それで、そのトロッコ問題。

トロッコが線路に沿って走っている最中、制御が利かなくなった。このままでは線路の上に立っている5人がトロッコに轢き殺されてしまう。そこでトロッコを別路線に引き込んで5人を助けたいが、この場合別路線に立っている別の1人がトロッコに轢き殺されてしまう。トロッコを別路線に引き込むべきであろうか?

つまり5人を助ける為に他の1人を殺してもよいか、という問題であるといえる。

「5人を助けるべきだ」という意見もあれば逆に「5人を助ける為に他の1人を犠牲にすべきではない」という意見もありうる。さらに、「別路線に引き込まない場合、差し引き4人を殺したことになるのではないか」という考えもありうる。またトロッコを別路線に引き込んだ人が道徳的責任を負うべきか、という問題もある。

   Wikipediaから転載

 というものでして、これであなたはどういう選択をするか(選択を増やせないとして)、そしてそれを自分の子供にどう説明するか、ですね。

 難しいといえば難しいですが、子供への説明云々をまず除外すれば、私なら、別線路に引き込んで1人に犠牲になってもらう選択をしますね。
 直感的にそう思った、というのがこの理由なんですけど、あえて理由をつけるなら、五人を殺すより一人を殺すほうがいい、ということで。おそらく、その一人が知人であっても、また友人、恋人であってもそうすると思います。
 自分の子供だったら……どうかな。微妙です。この場合は、見知らぬ五人を殺すかもしれません。理性では、たとえ犠牲になるのが自分の子供で、助かるのは見知らぬ人間であっても、やはり一人を殺すことを選んでいるんでしょうけどね。
 というかこれ、五人と一人をぜんぶ自分の子供、っていうことにしたらどうなることやら。この場合は、やっぱり一人を殺すことになるでしょうね、私なら。

 結局、この選択の立場に立ったとき、私という選択者はすでに誰かを殺すことが前提なわけでしょう。少なくとも、一人を救うか、五人を救うか、という考え方にはならない。どっちを殺さないといけないか、と思うんじゃないかと。
 トロッコを引き込まなければ五人が死ぬ、そのことを分かっていながらもなにもしないということは、五人を殺すことに他ならないですからね。あとになっても、起こるべくして起こったことだ、とはなかなか思えないでしょう。私は、ですけどね。

 昔、子供を売ったり、間引きしたり、年老いた父母や祖父母を捨てたりなんたりすることがありましたよね。それこそ世界的に。どの国でも行われていたことでしょう。まあ、今でもあるでしょうけど。
 あれで考えるなら、三人の子供がいたとして、二人の子供を殺すか、一人の子供を殺すか、という選択もあったでしょうね。もちろん、どちらの選択も自分の実の子。全員を助けるという選択はない。
 数の問題か、愛の深さの問題か。


 で、私ならトロッコ問題の選択をどう子供に説明するかを改めて考えてみる。
 あー、責任を負うことの意味を話すか、選択とはどういうことなのかを話すか。感情や道徳はどう共存するのかということも話すかもしれません。
 いや、こういうのはあれか、選択を正当化する為の言い分か。

 あー、もし私が選択できずに彼らを見殺しにした場合、私は自分のことではなく環境を非難することになるから、というところかな。「どうして私があんな選択をしなければならなかったのか」「私は間違っていない」「トロッコを整備していなかったやつが悪い」「あんな危険なところで作業をしているやつが悪い」「私は誰も殺していない」と。
 しかし、選択をした場合は、誰かやなにかに責任転嫁をせずにすみます。自分は倫理的に非道な選択をした、と。たとえ法で裁かれなくても、私自身がその意識を持つことができる。
 ああ、そうだ。これはあれだ、かなり自己満足な考え方なんでしょうね。つまり、自分の選択の理由を、自分の中にあるもの以外の存在に委ねたくないんでしょう。そして、その選択から起こった結果も自分の責任であることを明確にできる。これは大事なことです、少なくとも私にとっては。
 この問題は、まさにその人となりを表すような気がしてきますね。本質的な部分といいますか、普段見えない部分。
 いや、それっぽく、一般的の見解を真似することはわりと簡単だと思いますけどね。とりあえず、「全員助ける!」や「手を下したくないからそのままにする(見なかったふりをする)」が多数ではなかろうかと。心の底では自分なりの選択があっても、なかなかそれを表だっては言えないものですからね。きっと、道徳や倫理からの非難を恐れているんでしょう。

(11月24日 トロッコ問題の派生? として、「橋の上で、自分の隣に見知らぬ人が立っている。ブレーキの壊れたトロッコが橋の下の線路を走ってくる。線路の先には五人の作業員。放っておけば五人は死ぬ。しかし、見知らぬ人を突き落とせばトロッコは停まる。あなたは見知らぬ人を突き落とすかどうか」というものです。
 自分が飛び込む! という選択を作り上げる人が多いんだろうなと思わせる選択。
 いや、しかし、これは突き落とすのには抵抗がありますね。結果としては一人を殺すか五人を殺すかに変わりはないわけですけど。それでも、突き落とすと思います。で、私もそのあと天に召されることにします。)
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No title
この問題肝心な事が抜けていますよね。その五人と一人のなかに美少女はいるのかどうかという。金髪ロリ巨乳美少女の為なら核のボタンだって押してみます。
この手の問題って確か古代ギリシャの頃からありますよね。くだらないと言えばこれ以上なくくだらないことに長い年月をかけてきたものだと思います。
  • 2008-11-25│00:22 |
  • アミーゴ URL
  • [edit]
No title
まったくですね。私も貧乳ロリ美少女の為なら衛星落とし用のボタンだって押しますよ。
古代ギリシャからというと数千年をまたいだ設問になるわけですか…。たしかに、そこまで議論する必要があるのかどうか非常に疑わしいものではありますね。
そんな暇があるなら、一日でも長く美少女が美少女であるためにはどうすればいいのかでも考えだして欲しいものです。
  • 2008-11-25│10:35 |
  • かささぎ URL│
  • [edit]

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